昭和は遠くなりにけり
前回、日米共同声明について書きましたが、それを書いているうちにもう一つどうしても書きたいテーマが出てきました。
こんなに重大なことなのに、なぜ巷で話題にもならないのか?
僕は1994年にアメリカの某ロー・スクールにLLMとして留学しました。最初の授業が始まる時、特にまだ友達もいないし日本人は周りに僕だけだったので、階段教室の後ろの方の席に座ってぼんやり前を見てました。前の席にアメリカ人学生の二人組が座ったんですが、後ろの席に留学生らしきアジア系の学生が一人でいることに気がついたようで、声をかけてきました。
「ハイ、僕は〇〇。どこから来たの?」
「ハイ、僕は〇〇。日本から。」
「ああ、日本人ね。よろしく。そういえば今日本は連立政権になった様だけど、これからどう変わっていくの?」
「え。。。」
単独政権を維持できなかった自民党が社会党と連立して村山総理を擁立した時でした。でも何でそんなこと知ってるの?いきなり政治の話?とぐるぐる頭が回ってました。強烈に印象に残ったのは、こちらでは政治の話は常に気軽に行うホットトピックなんだということ。その後アメリカでは大学生はもちろんもっと小さな子供も自分の支持政党と政策に関する意見を持っていることに気が付きました。自分はといえば、高校から大学を卒業するまで政治や選挙には関心なかったし話題にした覚えもありません。この違いはどこから来るんだろう。
話は1960年代に遡ります。学生運動真っ盛りで、「安保反対」「ベトナム戦争反対」「学費値上げ反対」など、色々な要求を掲げて学生がデモ、ストライキ、籠城をしました。この学生運動、大学生だけではなく、高校生や中学生も積極的に参加しています。彼らは管理側、体制側に対する自己の主張を掲げ、管理体制の改革を試みました。その頂点が1968年から69年にかけての安田講堂事件です。最終的に東大安田講堂に籠城した学生たちを機動隊が放水などをして排除し学生の敗北で終わってます。以降、彼らは学生運動家、すなわち非合法暴力的集団のレッテルを貼られ表舞台から消えていきます。でも色々な記録を読むと当時真面目でよく勉強している人ほど真剣に社会を改善することを夢見て学生運動に走っていました。柴田翔の「されど我らが日々−」や庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」などベストセラーとなった芥川賞作品からは、当時の真面目な学生運動の様子やその真っ只中にいた学生の葛藤が伝わってきます。かぐや姫が歌った「神田川」も学生運動が背景にある歌で、リフレインされる
若かったあの頃、何も怖くなかった。ただ、あなたの優しさが怖かった。
というのは学生運動に身を投じている主人公の男性が、同棲する女性の優しさに負けて学生運動を放棄してしまうことを恐れているということです。当時、真面目に日本とその将来を考え行動に移した学生たちが社会的に抹殺されたのはとても残念です。
一方、文部省(当時)は考えました。こんな学生運動を野放しにして将来また政治に反発されては困る。今後は学生の政治活動を禁止して勉強だけさせておこう。そこで出てきたのが文部省通達。正式には「高等教育における政治的教養と政治的活動について(昭和44年10月31日文部省初等中等教育局長通知)」。この書き出しがすごい。
大学紛争の影響等もあって、最近、一部の高等学校生徒の間に、違法または暴力的な政治的活動に参加したり、授業妨害や学校封鎖などを行なったりする事例が発生しているのは遺憾なことである。
これが全てを物語るように、高校生の政治活動は禁止。しかもこれ、平成27年に投票年齢が18歳に引き下げられたことを受けて若干言い回しを変えた通達が出るまで生きてました。つまり、1969年以来50年間ずっと文科省通達によって高校生の政治活動は禁止されてたのです。
教育の力は恐ろしい。僕が大学に入った頃にはまだ学生運動を知る上級生がまだ残っていたのでキャンパスにいくつか立て看もあり、たまにアジ演説も聞こえてました。「ちょっと成田にピクニック」と言って成田闘争に参加してる奴もいました。それも次第になくなって、卒業の頃にはもう全く「平和」なキャンパスになってました。
中学高校大学を合わせても10年です。政治活動を禁止して10年もたてば、学校でかつて政治活動があったことさえ忘れられます。学生運動=暴力活動=ドロップアウトというレッテルを貼り、大学生も含めて政治に興味がない学生を増やせば話題はもっぱらファッションや遊興になっていきます。政治の話をするなんて変な奴、カッコ悪いとなります。これが50年も経っているのですから、もう政治を語る学生は皆無ですし、それを疑う人もいません。日本からグレタさんが現れないのも当然でしょう。しかもそんな学生生活を送った人間(私も)が今は社会人のほとんどを占めているのですから多くの一般人は政治家が何をしているのかに興味を失い、芸能人のゴシップやお笑いに関心が向く。テレビも視聴率を上げるためにそっぽを向かれるニュースや政治番組よりもお笑い芸人を使ったバラエティを垂れ流す。政治に関心を持つのは社会人になってしばらく経って社会の仕組みに気がついて疑問や関心を持ち始めるごく一部の人だけ。学生や社会人なりたての若者が政治に無関心なのも当然です。以前も嘆きましたが、考えるとその原因は1969年の文部省通達にある様です。もう東大紛争と言っても多くの若者は知らないのかもしれません。
ここから本題。最近前置きが長いです。今回の日米首脳会談も、前回書いた様にすごく重大な意味を持っていたのだけれど、誰も議論していないのはそもそも多くの一般人が政治に興味がないからで、長年にわたる政府側の陰謀(?)が功を奏しているわけです。そうすると何が起こるか?権力者が権力を不当に行使してもそれを批判する者、それに気がつく者がいなくなってきます。以前森元首相が「選挙に関心がないと言って(若者は)寝ててくれるのがいい」と失言してましたが、これも本音でしょう。テレビが全く政治やニュース番組をしないのは権力者の思う壺なのです。
さあ、これは大問題です。民主主義の基本は健全な議論です。全ての人が自分の意見を表明する機会を与えられることです。そこで重要になるのは、自分で考え自分の意見を持つために世の中の情報を得ることです。つまり知る権利。それは政治に対してだって同じです。年齢で制限する必然性もありません。高校生だって大学生だって、今政治がどうなっているか知る(学ぶ)権利があります。文科省は1969年からずっとその権利を奪ってきたんです。その結果が現在の政治無関心です。おかげで為政者は国民から強い批判を浴びることなく自由なことができる様になりました。
これどこかの国に似てます。
中国。
政治体制こそ違えど、中国こそ政府に逆らうことはご法度なので、政治そのものを議論することはないそうです。学校でも中国共産党の意向に沿った教科書で教育していますから共産党に都合の悪いことは教えないし、そもそも西側諸国の情報へのアクセスは制限されていますから、30年前に起こった天安門事件を知らない若者がほとんどです。政治を語らず、過去の反体制民主運動を知らない。中国って酷いなって非難する前に日本はその何年も前から同じ状態だったことに気がつくべきです。
香港。
香港理工大学事件は東大安田講堂事件を見ている様でした。学生を中心とした反体制民主運動の最後の砦となった大学キャンパスに学生が立て篭もり、政府側の攻撃に最後は投降する。その後学生は逮捕され、教育課程が改訂されて愛国教育がなされる。いずれ香港は日本や中国のように学生が政治を語らなくなり、香港理工大学事件もなかったことにされていくのでしょう。悲しいことです。
私たちは民主主義が極めて優れた治世システムだと教わってきました。民意によって為政者を選択し、常にこれを監視し、不適格だと考えれば民意によって交代させる。確かに素晴らしいシステムです。一方一党独裁制や専制君主制は為政者が腐敗すると革命でしか交代させられない点で民主主義に劣ると。しかしよく考えるとどれも為政者の選任、解任プロセスの話であって、為政者の能力は別です。独裁者であっても専制君主であってもその者が優秀な為政者であれば国は栄えます。シンガポールがいい例です。かの国は1965年の独立以来事実上の一党独裁ですが、優秀なリーダーが長く統治していたおかげで、現在まで素晴らしい繁栄を続けている稀有な例です。一方、民主主義であってもそれが本来の機能を果たさなくなってくると、為政者に対する自浄作用は期待できません。名ばかりの民主主義で選任された為政者が長く君臨し、絶対的権力者となり、「絶対的権力は絶対に腐敗する」。今日本はこんな状態ではないでしょうか。日本の為政者が中国や香港の先例になっている。皮肉な話です。
日本、やばいぞ。
ではまた次回。