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東京をアジアの金融ハブへ(2)

金融都市東京

香港の金融人材は東京に来るのか?

今日は。香港在住弁護士のマイクです。

前回は大前提について書いたんで、今回は小前提。

「東京はアジアの金融都市の一つである。」

これは事実です。実際、毎年2回発表される世界金融センター指数(GFCI)でずっと香港とシンガポールの後塵を拝してきた(最近は上海にも)東京がようやくニューヨーク、ロンドンに次ぐ3位になったと鼻息を荒くしてたのがつい10ヶ月前のことです。残念ながら直近では4位になったものの常にトップ6グループにいます。ただスコアをよく見ると、ニューヨーク、ロンドンがトップ争い、少し離れて香港とシンガポールが3位争い、さらに少し離れて上海と東京が5位争いをしていたところが、上海と東京が追いついて4都市で3位争い、つまり香港、シンガポール、上海、東京でアジアのトップ争いをしているという構図です。

このうち、上海はちょっと置いておいて(このところの中国の経済成長を考えると、あっという間に上海が1位という時代が来るのかも)、東京は、香港、シンガポールと同じ世界金融センターというのはだいぶ違うぞと思ってます。先日、政府関係の方から香港金融人材を東京に呼び込む事についての意見を聞かせてほしいと言われて「ウインブルドンでプレイしている選手を国技館に呼んで相撲をしてくれと言っているようなものです。」と例えてみました。わかってくれたかな?

香港は元々小さな漁港でしたが1842年にアヘン戦争の結果イギリスに割譲され、イギリスにとってのアジア中継貿易拠点として発展した後、現在は金融業が経済の中心となっています。香港は土地も狭く製造業も農業も向いていないので、経済の発展のためには人的資本がモノをいうサービス業(金融業)が最も向いています。香港政府もそこは十分理解していて、イギリス統治下での完備された法体系、優遇税制、高い教育水準と英語教育を武器に積極的にファンドマネージャー等が業務を行いやすい環境と制度を作り出して彼らを香港に呼び込んでいます。この点、シンガポールも大体同じです。

一方、日本はというと、1960年代の高度成長期の保護主義政策から90年のバブル崩壊後の混乱に至るまで、旧大蔵省による護送船団による国内産業、特に国内金融機関の保護主義により、海外人材どころか海外企業の日本進出にもいろいろな制約をつけてきました。お陰で日本の政府系企業と金融機関は世界に冠たる企業となりました。80年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と崇められた頃は東京の土地の値段でアメリカ全土が買えると言われ、バブルが弾けた直後の世界企業時価ランキングでは上位10社のうち7社が日本企業でNTTと東電以外は5社が銀行でした。残念ながら30年後の現在はようやくトヨタが40位代に顔を出すだけです。

今では流石に護送船団方式は消えましたが、至る所に当時の保護主義の残滓が見え隠れしています。今日本の政治経済の中枢にいる人たちは若い頃にこのジャパン・アズ・ナンバーワンを経験してしまったお年寄りの皆様(私もそうだが)なので、金融都市とは国内金融資産(さらなるお年寄りが抱えている個人資産)を運用して世界のトップになることと考えている節があります。

結局、同じ「金融都市」といっても香港(やシンガポール)が世界中の資金を世界中で運用するためのプラットフォームを作り上げているのに対し、国内資産を国内で運用することを主目的として海外からの資金や運用者を排除してきた日本はその性格が全く異なります。その意味で日本はこのままでは金融都市であっても金融ハブにはなれないでしょう。

続きは次回。